思い出記録

2月9日


大好きだった在所の
おじいちゃんが亡くなりました。



yuukya diary
の私のブログにも
最初多分おじいちゃんと出掛けた
事書いてあるかなぁ



昔から私は
お寺の御住職であったおじいちゃん子。
七人の孫の中でも、一番可愛がられたと周りが言うほど、おじいちゃんに可愛がられた。 小さい頃、京都も何度か連れていってもらった。二人でボタン雪の中人力車に乗ったりした記憶…今でも覚えている。

高校の時も入学から 卒業まで寺に住ませてもらい、お世話になった。
中学の頃、父を亡くした為、不安定で、心配もたくさんかけたと思う。

車の免許を取り、自分の車を持ち、すぐさまおじいちゃんやおばあちゃんとドライブに出掛けた。 おばあちゃんは家事疲れか、よくおじいちゃんと二人でドライブに。

いろんな所へ行った。
おじいちゃんは毎回嬉しそうで私は幸せに感じた。

大好きな、おかきなどのためにイオンなどをはしごしたりもした。

4、5年になるだろう
おじいちゃんが元気だったのは。

実家に戻り、独り暮らしをし、
甲状腺の病気がきっかけで私が彩書描き始め個展などをし、たくさんの人が応援してくれた。新聞などに私が載ると自分の事の様に喜んでくれた。アーティストとして苦悩し、優しく話を聞いてくれる、おじいちゃんは私の心の支えとなっていた。

両親を亡くし、苦労し、たくさんの応援してくださる方と共に、震災で全壊した寺を再建し 60年以上でしょうか住職として頑張ってきたおじいちゃんには、たくさんの事を学びました。戦争の話もよくしていた。戦友の話をするときは嬉しそうだったなぁ。戦争の時、学校で成績1番だった為、沖縄の穴蔵で通信?を任せられしていた。ツーツーって。そこで誰よりも先に日本が負けたことを知り、報告したら、日本が負けるわけないだろ!と殴られたそうだ。そんな話を聞くのが私は興味深かった。沖縄で食料がなくて木に実るライチをちぎって食べて美味しかったのが忘れられず、ライチも好きだった。嬉しそうに懐かしそうに食べてたなぁ。お金が無くても古本屋で立ち読みしたり、買って読んだら売ったりして勉強したという。剣道やテニスをしていて勉強は出来るし運動も出来るしカッコいくてそれはモテたんだよとおばあちゃんはたまに話してくれたりしたけれど、なかなかそんな人いないよすごいと子供ながらに思った。

肺炎になって肺の機能が片方機能していなかった為、呼吸器を付け、次第に足も動かなくなり、寝たきりになってしまった。
ここ、1年で急激に痩せて弱ってしまい、会うたびショックを胸の中に閉まっていた。

おじいちゃんに毎度会うときには、何か美味しいものを持っていくのが定番。
もうわからないぐらい前からお約束である。西尾の朝市の漬物屋さんで買う、ぬか漬けや、おかき、せんべい、黒糖菓子、駄菓子、などなどたくさん好物があり、新しい好きそうなお菓子などをこれどうかな?と聞くのが私も楽しかった。元気があった頃は、フリフリで可愛い服を着ておじいちゃんおばあちゃんに見せるのが楽しみの1つだった。
ゆうかは何でも似合うなっ!ってニンマリした顔で毎回言うから おじいちゃんが言うたびに、出たー!言うと思ったー笑と周りが言い出す! 男の子と間違えるくらい男の子っぽかった私が、女の子らしい服を着だして嬉しかったんだろう
まとめれば、リアルちびまる子とおじいちゃんの様な感じである。

おじいちゃーん って真っ先に会いに行ってたしなぁ笑

思い出だらけです。



おじいちゃんの写真を親戚で見ていて
少ないおじいちゃんの写真をみて
みんなして、悠華たくさん一緒の写真あるね〜って言ってた。
ドライブで出掛けた菜の花畑でツーショットとかご飯食べた後のごきげん写真とか
思い出を話して喜んだ。
元気だった頃のおじいちゃんの記憶は微笑ましいからでしょう



ほんとに可愛がられてきた


他県に何ヵ月か行くときは
おじいちゃんが気掛かりだった。
どこかに出掛けると、いつも、おじいちゃんにお土産ないかなと探してしまう

バレンタインデーおじいちゃんと
焼き場に行くんだ
好きなものを持ってくる約束したから
買っていくんだ
ドタバタを少し抜け出して…
お供えになっちゃうけれど
きっと喜んでくれるよね


近所の世話方さんに、おじいちゃんが、よく悠華ちゃんの話していて
連れてってくれたとか
京都行ったとかさ 聞いたよ
と通夜の時に言ってくれた。

さぁ朝になったらお葬式。
もうひと踏ん張り。ずっとお寺のことでドタバタで 吐いちゃったり、頭痛やらストレスかなんかかしらんけどわけわからん症状もあったり 手伝いで忙しかったけどやっと落ち着くのかな。

辛いことの後には幸せが来ると
おじいちゃんと最後話したから
きっと幸せがたくさんあるから
あと1日悲しんだら
笑顔の悠華ちゃんに戻ります!